· 

人と違うと感じている人とその周りの人へ

【自分は人と違うと思ったことのある人、もしくは変な人が身近にいる人に】

プレビュー画像は映画『逆さまのパテナ』から

 

さて、人は自分の世界観が正しいと思っているから

違う考えの人と会うと「相手が間違っている」と思いがちです。

 

自分の大切にしているものをけなされたり、逆に相手の見ている世界を否定してしまうこともあるでしょう。

 

自分の価値観や自分の世界が普通&当たり前という感覚は、違う感覚の相手と遭遇した時に条件反射で否定してしまったり、「私が正しい」「私は悪くない」に固執してしまう要素を含んでいます。

 

逆に昔から

「なんかアナタ変わってるわね」「アナタと私は違うのよ」

と言ったことを多く言われていた子。

もしくは自分で「違うな~周りと。。」

のような感覚を持っていた子。ちなみに私は両者です。

 

そういった子供時代を歩んできた人は、成長すると考え方の落とし所が大きく分けて二つに分かれます。

一つ目は

・人は私と違うから、私のことを理解してくれない

二つ目は

・私は人と違うから唯一無二でスペシャル

 

 

一つ目はネガティブな感覚とも言えます。

悲観的すぎると引きこもり感満載で世界に対して自分の価値観を発信することに抵抗が出ますが、

良い点も含んでいます。

 

それは、意識が受動ではなく能動に切り替わった時。
人は自分と違うことを当然として考えるため、理解してもらうための努力や方法に行き着いた時、
本人のコミニケーション能力値はとても高くなるところです。

 

また、二つ目は自分の自己承認として他人との違いを利用している点ではポジティブな感覚とも言えます。
が、こちらは選民思想的な意識が強くなってしまうと考えると、

小さな国家の独裁者のような感覚で生き続けることになります。

 

そして、他人と比べて自分はスペシャルだ という感覚自体、他者がいなければ

成りたたない自己承認の方法なので本当の自己承認とは言えません。

 

上の二つに対して思うのは、

人間関係で上手くいく自己承認の形は、他人と一緒でも、他人と異なっていても、

自分のことを肯定できる感覚を持つことが本当の自己承認。

 

それを持てるとナチュラルに他人との関係性を築けるのだということです。

 

ただ、自分のことを肯定できるだけでは他人との共存は大変。

(割り切って距離を取ったまま、近づこうとすればするほど喧嘩になる等。)

さて、自己肯定感以外に両方に共通している、必要な要素はなんでしょうか?

 

 

 

私が思う要素としては、

「理解してもらいたい」という欲求と、

「理解したい」という欲求だと思います。

 

「理解してもらう努力」というのは、相手の立場に立って理解してもらいやすい

言い方や

例え話、

タイミング、

口調

話す環境

などを調整することでもあります。

 

こう書くと、ずいぶん手間がかかっていますよね、理解してもらうための努力ってw

 

正直面倒くさいかもしれません。

 

でも、そこでもし 面倒くさい と思ってコミニケーションの努力をやめてしまったら、

「自分が正しい!!!」という主張をしている人の意向に沿って物事が進んで行くことになります。

 

それを続けていくとしたら、その人の人生はイキイキと過ごしていると言えるでしょうか。

 

ちなみに「面倒くさい」と感じて相手に理解してもらおうとするのを諦めるのは

①相手の気持ちがわかっている

②自分の気持ちもわかっている

③相手に自分の気持ちがわかってもらえないと感じる

 

という条件で見受けられることが少なくありません。

 

 

昔の私の話を少し。当時の自分は、本当は人にわかって欲しい気持ちがあるのに蓋をしたままで、

食べ物や読書に逃避していました。そして、自分を認める気持ちがゼロに等しく、人への関心もありませんでした。

 

人から理解してもらいたいだけだった私は、振る舞いでは理想の自分像としていい人を振舞っていましたが、

内心は理解してクレクレ星人で、独りよがりだったと思います。

そんな私を変えてくれたのは過去の彼氏さんであり、今の旦那さんであり、

もともと私の周りにいてくれた家族や友人たちでした。

 

 

結局何が言いたいかというのは既にいろいろ書きましたが、

相手を理解しようとすることと、相手に自分のことを伝えるのを諦めるな 

ということでしょうか。

 

 

追伸

本当は、さらっと映画の感想書くつもりが、、、なぜかこんな長文になりました爆

「逆さまのパテナ」ですが、ラピュタっぽい話、で一括りにしないで観たらきっと楽しめますよー^^